とりにっき

にっき(不定期更新)

やりがい、あるいは忙殺について

最近は研究の方が忙しく、土日を半分くらい返上して研究に関するもろもろに取り組んでいる。

当然、やる前は土日なぞ返上したくなかった訳なのだが、やってみるとなぜか精神面の体調(心調?)が良い。今回はその理由について考えてみたい。

 

実際のところ、こうして自主的に残業(?)しているにも関わらず幸福度が低下していない理由は、研究が好きだからではない(たしかに人よりは研究に対して好感を持っているとは思うが、土日に嬉々として取り組もうと思うほどではない)。シンプルに研究が進んでいるからである。

詳細は伏せるが、今は研究に時間を割けば割くだけ研究が進む確変フェーズに入っている。言い換えれば、研究に投資した時間がほぼ100%進捗として反映される。だからこそ、土日を返上しても、「ああ、今日も自分は頑張ったなあ」と思えるのである。

 

そう考えると、研究にやりがい(あるいは楽しさ)を感じるためには、2つの条件が必要なように思える。

1つ目は、投資した時間に対して十分な報酬が得られることである。今回の場合でいえば、研究の進捗が報酬にあたる。

2つ目は、報酬が日常生活で得られるそれよりも大きいことである。土日を返上して得られる報酬が、土日にゲームをする報酬よりも低ければ、当然土日に研究をやろうとは思わない。普段、土日に「ああ、今時間を無駄に過ごしてるなあ」という焦燥感(あるいは自己嫌悪)を感じることがあるからこそ、研究がやりがいになっている側面もある。

(ちなみに、これを書いているのも土日である。今日は研究をしていないため、はてブでその埋め合わせをしようとしている。)

 

一方で、こうしたやりがいによる報酬は薄れていくものである。慣れ、問題の顕在化、突然のデータ消失、色々な理由はあれど、最初に感じたやりがいをずっと感じ続けられる人はそう多くないだろう。

そうして、やりがいの報酬が少しずつ薄れていき、ついにある閾値を下回った時、人は忙殺されていると感じるのではないだろうか。

 

そう考えると、今の私のフィーバータイムも、そう長くは続かないのかもしれない(というか続かないだろう)。今のうちにできる限り研究を進めなければ、そう思いつつ、研究をせずに眠るとりであった。

 

最初は夢中でのめり込んでいたのに、いつしか冷めてしまった。

そう思ったのなら、あなたのやりがいが閾値を下回ってしまったということなのかもしれない。だとすれば、少し休んでみたり、あるいは仕事や研究に何らかの変化を加えてみると良いのかも?

 

 

 

大学や大学院で学んだこと、あるいは視座について

大学や大学院に入って一番良かったことは、頭が悪い表現をすれば、とにかく頭が良くなったことだと思う。

しかし、よく考えてみると、大学で得た頭の良さと、大学院で得た頭の良さは大きく異なっている気がした。そこで、簡単に文章としてまとめてみることにした。

卒論を控える卒研生、あるいは後方腕組みをして自分の成長を味わいたい大学院生の方には読んでいただきたい。

 

大学で得られる頭の良さは、主に知識の理解によるものだと思う。

大学に入ってマクローリン展開を知った、仮説検定を知った、フーリエ変換を知った、グラフ理論を知った…特に数学については、高校生の頃とは比べ物にならないくらい色々なことを知ったと思う。

また、知る過程でたくさんの思考の引き出しも身につけた。教育実習のとき、高校数学の問題に取り組む機会があった。高校生の頃は教科書の問題に苦戦したり、教科書で言っていることの意味がわからなかったりしたものだが、大学生になってから取り組んでみると(高校数学なんてほとんどやってないのに)驚くほどすんなり解ける。

これは知識を得る過程で数学一般に使える思考の型を身につけたということなのだろう(教職課程っぽい用語で言えば知識の転移)。

他には、世の中には複雑なものをシンプルなモデルとして捉えようとする考えと、複雑なものを複雑なまま捉えようとする考えがあることも学んだ。

これを知ってから、世の中の問題の見え方が大きく変わった。世の中には白と黒の二色に分けられる問題などほとんどなく、それほど「200色あんねん」というくらい複雑な要因が絡み合っていることを学んだ。

まとめれば、大学で学んだことは、ものの見方といえるかもしれない。数学の問題1問に1日を費やしたり、あるいはとある科目で期末レポートを10本書いたりして得たものは、課題として与えられた目の前のものを自分が納得いくまで観察し尽くす力だろう。

一方で、卒研や大学院で得た頭の良さは、自身の思考を表現する力だと言えるかもしれない。あるいはマクロな視点で課題に取り組む力だろうか。

大学でも、試験やレポートという形で思考を表現する機会はあった。しかし、それはせいぜい数週間のスパンの思考を、数千字に込めたものでしかない。

研究では、年単位の試行錯誤(あるいは思考錯誤ともいえるかもしれない)を、数万字で表現する必要がある。

そのため、より大局的に思考を表現する必要がある。言い換えれば、自分が取り組んだ複数の課題を論理で繋げ合わせる必要がある。

これは卒研で非常に苦労したところである。なにせ研究をしたことがないので、どうしても目の前の課題をこなすことに意識が向いてしまう。その結果として、場当たり的なアプローチをとってしまいがちで、そのことが卒論を書く際に自分を苦しめたりもした。

でも今は違う。今は、もう少し大局的な視野で研究に取り組めるようになったと思う。

例えば、アプローチは独立したものではなく、研究の目的から定まる部分があると理解している。

例えば、結果の解釈は、むやみやたらに行うのではなくて、目的に照らした部分に絞って行うことを理解している。

さらにいえば、こうした思考の過程を素直に言語化できるようになってきたとも思う。

これも自分の経験談だが、自分の思考を素直に言語化することはかなり難しいと思う。「欲しいものが欲しいわ」というキャッチコピーが意味するように、我々は自分の得たいものすら満足に表現できない。

もちろん研究周りの知識不足も原因の一つなのだと思うが、それ以上に、自身の思考を逐一言語化する経験がないというのが原因なのではないかと思う。

研究では「なんとなく」は許されない。経験則から定まる部分もなくはないが、基本的には妥当な根拠をつけなければならない。そうしてすべての事象に論理的な根拠をつけていく(あるいはそれ自体を探求する)過程で、少しづつ大局的な目線や、自身の思考を表現する力を養っていくのだろう。

論理的に思考を表現する能力が培われたと言っていた割に内容がとっ散らかってきたが、まあそれはブログには能力が転移しない(あるいは気持ちに任せて書いた乱文には転移していない)ということでご容赦いただきたい。

 

私が言いたいことはただ一つ、

自分、頭良くなったなあ。

 

 

研究に関する経験則

これまでの研究で培った(?)経験則をまとめてみた。

 

  • イデアの広げ方
    • 具体と抽象を使い分ける
      • 俯瞰したり、あるいは自分の身近なところで考えたり、さながら虫眼鏡を目に近づけたり遠ざけたりするように考える。
    • 先行研究を調べない
      • 研究はそもそも具体化されきったものなので、特に参考にならない
      • 先行研究のアイデアに引っ張られてアイデアが広がらない
    • ダメそうだと思っても諦めない
      • 前提条件やリミテーションを吟味する
      • 同じアイデアが他の課題に適用できないか考える
      • 研究の粗を探すイメージ

 

  • 良いアイデアを選び出すとき
    • 評価軸を決める
      • 評価軸がないとまとめようがない
      • 評価軸は「何が知りたいのか?」に応じて定まる
      • 大抵トレードオフなので、うまいこと間がとれないか考える
        • 大体ここで大量の時間を使う

 

  • 情報の調べ方
    • 完全一致や除外検索でヒットする情報の質を上げる
    • 自分が知りたいキーワードと、研究で使われる用語(ターム)は大抵一致しない
      • 用語(ターム)が分かったらそちらにワードを切り替えて調べる

 

  • 信用できる情報
    • 基本は査読ありのもの
    • 査読ありのものであっても批判的に読む
    • 査読なしのものも、「今どういうことがやられているのか」を例示する目的で関連研究として取り上げることがある

 

  • 論文の読み方
    • 大意を掴む
      • アブスト最強 
      • 詳細は論文や原稿にまとめる時に見ればよいのであって、最悪ななめ読みでも良いと思っている
    • IMRaDとかの型を意識して理解する
      • どういう目的で(どういう研究の上に立っていて)
      • 何を作って、あるいは何をして
      • 結果がどうで
      • そこから言えることが何か
      • が分かれば大抵困らない
        • 実験の詳細とかは覚えてなくても良い

 

やる気についての補足

(前回)

https://fired146.hatenablog.com/entry/2023/10/17/190000

の続き。

普通ブログって一話完結だと思うんだけど、前のやつも長くなってしまったので。

 

この記事を書いたあと、本を読む習慣をつけたいと思ったので、以下のルールを守ってコツコツ本を読むことにした。

 

1.読む本は明確にする

2.読む理由も明確にする

3.電車に乗ったら本を読む(既に習慣づけられているものに紐づけて読むということ)

 

結論から言えば、数日で読み終わる量だったこともあり、案外あっさり読み続けることができた。

しかし、面白いのはここからで、この本を読み終わった瞬間に、電車で本を読む習慣(というほど続けてないが)は途切れてしまった。

そう考えると、コツコツやらなければならない系のことは、習慣と紐付けることを意識した上で、常にやりたいことを(理由付きで)リストアップしておくことが必要なのかもしれない。いわゆるやりたいことリストを作り、「やりたいことリストを制覇する」こと自体を目的とすることで、やる気を持続できる可能性がある(論文の"おわりに"並感)。もちろん、単に今までやっていなかったことを取り入れた新鮮さのおかげで続いた可能性もある。その場合はリストを作っても効果は薄いかもしれない。

いったん読んでしまえば読み終わるまでやる気は続くのに、読み終わってしまうと次の本を探そうとなる前にやる気が尽きてしまう。やる気は実に捉えどころがない。

 

 

人はいつやる気が出るのか、あるいは希望と絶望について

これは人類史上最も重要な問題である。なぜなら、やる気が出なければ、何もできないからである。

やる気なしに勉強はできない。やる気なしに仕事もできない。やる気がないと思っている場合でも、消極的な理由でやる気が出ていることもある。

ここでは、タスクの性質に応じてどのような場合にやる気が出るのかの経験則をまとめてみたい。

 

1.絶対にやらなければならないタスクへのやる気

これは今やる気が出なくても全く問題ない。なぜなら、締め切りがやる気を駆動するからだ。なので、このタスクへのやる気の出し方は考える必要がない。

…というと乱暴なので、このタスクの場合いつやる気が生まれるかを議論したい。やらなければいけないタスクへのやる気はいつ生まれるか、それは「タスクが終わらないことに絶望したその瞬間」である。

このことを最も端的に表しているのが、「クズの俺が今から努力して間に合うか!?」という一節である。

つまり、目の前の1mmも進んでいないタスクの惨状を真の意味で認識し、絶望した時にやる気が駆動される。

これはある意味でピュアなやる気である。やるしかないので、他の動機はなく、純粋にやることに打ち込める。

余談だが、『限りある時間の使い方』という本にも似たようなことが書いてあった。詳細は省くが、そこでも絶望することが、有意義に時間を使う第一歩だと述べられていた。

あるキャラクターは「だって希望は、前に進むんだ」と言った。しかし現実は絶望の方が物事を前に進める力をもっているのである。

 

2.やった方がいいタスク(必須ではないもの)へのやる気

大抵の場合問題になるのはこちらである。なぜなら、このタイプのタスクはやらなくてもなんの問題もないからである。やらなければならないタスクは、やってみて(あるいは締め切りに駆動されて)、タスク達成までの距離がわかれば勝手にやる気が駆動する。つまり最初の一歩は必ず踏み出せる。

一方で、こういう自己研鑽に高いタスクの場合は、自分で一歩を踏み出さないといけない。そこで、自分の中での現時点での対処法をまとめてみたい。

 

a.習慣化する
例えば興味のある講義を大量に履修(あるいは潜る)ことがそれにあたる。自分から勉強する気力が湧かないのであれば、勉強する環境に身を移すという考え方だ。特に対面講義のように、集中力の如何に関わらず進んでいく形がベストだろう。オンデマンドだと再生ボタンを押すまでの距離が恐ろしく遠くなる可能性がある。

 

b.一気にやる
一見 a.習慣化する と矛盾しているようだが、矛盾はしていない。集中講義のイメージがそれに近い。

やる気が湧かないなら短期決着で勝負を決めて、継続的なやる気が必要ない形にするというものである。

「鉄は熱いうちに打て」というように、「やる気も熱いうちに打つ」のである。しかし、これは長期的な努力を必要とするものには適用できない。あくまで1日、長くても数日で終わるものでないと、やる気が冷めきってしまう。

あるいは、1日で終わるものであっても、取り組んでいるうちにやる気が失せることもあるかもしれない。

 

c.脳内物質を威嚇する

まだページを戻るのは待って欲しい。100%精神論だけど待って欲しい。

なお以下の記述は科学的根拠を欠くので、まったくもって事実とは異なることが書いてあると思ってもらって構わない。なんかやばいことが書いてあるが、自分もこれを信じているわけではない。要はネタである。

やる気が起きるメカニズムは知らないが、ドーパミンとかいうのもあるし、やる気には脳内物質が関わっていそうな気がする。

だとすれば、あなたのやる気のなさは脳内物質によって作り出されたまやかしかもしれない。だからこそ、脳内物質を威嚇することでやる気の主導権を取り戻すのだ。

 

d.やらない

これはある意味もっともラディカルな選択肢である。なぜやる気が出ないことに苦しんでいるのか?それは簡単で、やろうとしているからである。

例えば私は山に登れないことを苦痛には思わない。なぜなら山に登りたくないからである。一方で、山は憧れを持っている人からすれば、山に登れないことは苦痛を生むかもしれない。

私はやりたい分野の数学書を読めていない時(読める時間があるにも関わらず読みもしない時)に苦痛を感じるが、一方で数学と無縁な人からすればむしろハッピーに思うかもしれない。

絶対にやらなければならないタスクへのやる気とは異なり、こちらはこうした絶望がますますやる気を奪っていく。

であるとすればそもそも「やった方がいい」という幻想を捨てた方が早い気もする。そんなアプローチがやらないという行動の意味である。

 

以上、4つの方法を挙げてみたが、正直どれもタスクの性質を選ぶ気がしている。a.習慣化する は学びたい大学の講義がある場合有効だが、そうではない内容を学びたい時には使えない。

d.やらないも強力な解決法だが、結局やっていないので「やる気を起こす」という観点からはズレている。

 

私はまだどんなタスクにも有効なやる気の起こし方を知らない。取り組むべきタスクは挙げればきりがないが、それらは遅々として進んでいない。

やった方がいいタスクが進んでいない絶望に苛まれ、タスクへのやる気を喪失している。

一方で絶対にやらなければならないタスクが後回しになっている現状に絶望することで、タスクへのやる気を生み出している。

いつか絶望を飼い慣らし、すべてのタスクに取り組める日は来るのだろうか。できれば希望を胸にタスクに取り組みたいものである。

 

(2023/10/30追記)

続編(?)として習慣を作ろうとした時の話を書いてみました。

https://fired146.hatenablog.com/entry/2023/10/30/200000