とりにっき

にっき(不定期更新)

大学や大学院で学んだこと、あるいは視座について

大学や大学院に入って一番良かったことは、頭が悪い表現をすれば、とにかく頭が良くなったことだと思う。

しかし、よく考えてみると、大学で得た頭の良さと、大学院で得た頭の良さは大きく異なっている気がした。そこで、簡単に文章としてまとめてみることにした。

卒論を控える卒研生、あるいは後方腕組みをして自分の成長を味わいたい大学院生の方には読んでいただきたい。

 

大学で得られる頭の良さは、主に知識の理解によるものだと思う。

大学に入ってマクローリン展開を知った、仮説検定を知った、フーリエ変換を知った、グラフ理論を知った…特に数学については、高校生の頃とは比べ物にならないくらい色々なことを知ったと思う。

また、知る過程でたくさんの思考の引き出しも身につけた。教育実習のとき、高校数学の問題に取り組む機会があった。高校生の頃は教科書の問題に苦戦したり、教科書で言っていることの意味がわからなかったりしたものだが、大学生になってから取り組んでみると(高校数学なんてほとんどやってないのに)驚くほどすんなり解ける。

これは知識を得る過程で数学一般に使える思考の型を身につけたということなのだろう(教職課程っぽい用語で言えば知識の転移)。

他には、世の中には複雑なものをシンプルなモデルとして捉えようとする考えと、複雑なものを複雑なまま捉えようとする考えがあることも学んだ。

これを知ってから、世の中の問題の見え方が大きく変わった。世の中には白と黒の二色に分けられる問題などほとんどなく、それほど「200色あんねん」というくらい複雑な要因が絡み合っていることを学んだ。

まとめれば、大学で学んだことは、ものの見方といえるかもしれない。数学の問題1問に1日を費やしたり、あるいはとある科目で期末レポートを10本書いたりして得たものは、課題として与えられた目の前のものを自分が納得いくまで観察し尽くす力だろう。

一方で、卒研や大学院で得た頭の良さは、自身の思考を表現する力だと言えるかもしれない。あるいはマクロな視点で課題に取り組む力だろうか。

大学でも、試験やレポートという形で思考を表現する機会はあった。しかし、それはせいぜい数週間のスパンの思考を、数千字に込めたものでしかない。

研究では、年単位の試行錯誤(あるいは思考錯誤ともいえるかもしれない)を、数万字で表現する必要がある。

そのため、より大局的に思考を表現する必要がある。言い換えれば、自分が取り組んだ複数の課題を論理で繋げ合わせる必要がある。

これは卒研で非常に苦労したところである。なにせ研究をしたことがないので、どうしても目の前の課題をこなすことに意識が向いてしまう。その結果として、場当たり的なアプローチをとってしまいがちで、そのことが卒論を書く際に自分を苦しめたりもした。

でも今は違う。今は、もう少し大局的な視野で研究に取り組めるようになったと思う。

例えば、アプローチは独立したものではなく、研究の目的から定まる部分があると理解している。

例えば、結果の解釈は、むやみやたらに行うのではなくて、目的に照らした部分に絞って行うことを理解している。

さらにいえば、こうした思考の過程を素直に言語化できるようになってきたとも思う。

これも自分の経験談だが、自分の思考を素直に言語化することはかなり難しいと思う。「欲しいものが欲しいわ」というキャッチコピーが意味するように、我々は自分の得たいものすら満足に表現できない。

もちろん研究周りの知識不足も原因の一つなのだと思うが、それ以上に、自身の思考を逐一言語化する経験がないというのが原因なのではないかと思う。

研究では「なんとなく」は許されない。経験則から定まる部分もなくはないが、基本的には妥当な根拠をつけなければならない。そうしてすべての事象に論理的な根拠をつけていく(あるいはそれ自体を探求する)過程で、少しづつ大局的な目線や、自身の思考を表現する力を養っていくのだろう。

論理的に思考を表現する能力が培われたと言っていた割に内容がとっ散らかってきたが、まあそれはブログには能力が転移しない(あるいは気持ちに任せて書いた乱文には転移していない)ということでご容赦いただきたい。

 

私が言いたいことはただ一つ、

自分、頭良くなったなあ。